12月4日(木)1校時、2年生の道徳で「六千人の命のビザ」(「新しい道徳 2」東京書籍)を資料として、杉原千畝(1900年~1986年)の生き方から考えました。
1939年、ドイツのポーランドへの侵攻を受けて、イギリスとフランスがドイツに宣戦布告し、第二次世界大戦が始まりました。当時のドイツは、ナチスの独裁体制下にあり、ユダヤ人への差別や迫害が行われていました。第二次世界大戦中、迫害は激化し、多くのユダヤ人が強制収容所へ送られ、命を奪われました。
1940年7月、リトアニアの日本領事館に赴任した杉原千畝は朝、日本領事館の周りを何百人の群衆が押し寄せている様子を目にし、驚きます。ドイツ軍に占領されたポーランドから、ナチスの手を逃れてきたユダヤ人が、ソビエトから日本を通過し、アメリカなどに逃げるための通過ビザを要求していました。杉原は外務省にビザ発行の許可を申請しますが、返事は「否」。当時リトアニアはソビエトに併合され、各国の領事は国外に退去しており、日本領事館にもソ連から退去命令、日本の外務省からも退去指示が出されていました。
その後も2回目の電報を外務省に出しますが、外務省の意向は変わらず、大量の外国人が日本国内を通ることへの治安上の懸念もつけ加えてきました。
しかし、杉原は心を決めます。
「大勢の人たちの命が自分にかかっている。外務省に背いて、領事の権限でビザを出す」と。
家族も杉原の気持ちに同意します。
杉原は早朝から夕方遅くまで、やむなくリトアニアから退去するまで、20日余りの間に1日300枚のペースで2139枚のビザを書き続け、約6000人のユダヤ人の命を救いました。
その後、1968年、千畝がビザを渡したユダヤ人の1人がイスラエル日本大使館員として赴任し、千畝と感動の再開を果たします。そして1985年には、イスラエル政府より千畝に最高の賞が贈られました。
資料を読み、生徒たちは「自分が杉原の立場だったらどうするか」について考え、グループやクラスで共有しました。
・少しでも救える人がいれば、助けたい。
・自分を頼りにしてきてくれた人たちの気持ちに応えたい。
・自分一人の犠牲と多くの人の犠牲を天秤にかけたら、多くの人を助けたい。
・助けたいけれど、自分や家族の身に危険がおよぶのは…。
・助けたら日本の外交官として、戦争をしている日本に不利益が出るかもしれないし、自分や家族にも危険がおよぶ。
当時の杉原には、「一人の人間としての立場」「家族を守る家長としての立場」「日本の外交官という立場」がありました。
また、日本を含む世界が二つに分かれて戦争をしているという社会的背景もありました。
杉原は後年「私のしたことは外交官としては間違っていたかもしれない。しかし、私に頼ってきた何千もの人を見殺しにすることはできなかった」と述べています。
自分の立場や、置かれている状況、社会的背景、これらを熟慮して、自ら判断する。
これからの予測が難しい時代を生き抜く生徒たちには、正解のない様々な問いについて「判断する力」や自分は何を大事にするかという「価値観」をもって生きていくことが大切となります。学校生活や日常生活の中で色々なことを学び、経験する中でこれらの力や感性を養ってください。







